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Let's Walk Ogikubo Together!

観泉寺

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広々とした日本庭園が美しい、戦国大名・今川家ゆかりのお寺です。

▼くるくる回して見てください
(“Googleマップで見る”で全画面表示が可能)

■オリジナルレポート
観泉寺 1
今日は愛車を運転して、観泉寺を訪れました。
観泉寺は、戦国大名・今川義元が有名な今川家ゆかりのお寺で、今川家の菩提寺です。

観泉寺2
駐車場の隣は竹林になっており、日本的な情緒が感じられます。
車で来ても無料で駐車できるのが嬉しい。

観泉寺3
境内に歩みを進めると、手入れの行き届いた日本庭園があります。
清々しい。

観泉寺4
掃き清められた境内は、まるで鎌倉にあるお寺のような、上品で静かな雰囲気。
この雰囲気を荻窪で味わえるなんて、最高ですね~(しかも東京都指定旧跡で拝観料は無料です)。

観泉寺5
本堂の左手を墓地内に進むと、今川家累代のお墓がありました。

ここで少し歴史を振り返ってみましょう。
桶狭間の戦いでは、2万5千人を率いた今川義元に対して、織田信長はわずか3千人ばかりの兵力を率い、今川義元ただ一人を狙った奇襲をかけて見事に歴史的な勝利をおさめました。

圧倒的な兵力差で籠城を進言する家臣に、「籠城で勝った戦がどれだけある?1歩でも外に出て戦う」と宣言した織田信長。
しかし、織田軍の砦は次々と陥落し、絶体絶命の大ピンチの状況でした。
そんな中、織田信長は出陣に際して、敦盛(あつもり)という曲の一節である「人間五十年」を舞い、死を覚悟して決戦に挑みました。

~「人間五十年」の一節~
“下天(げてん)の内(うち)を比(くら)ぶれば 夢幻(ゆめまぼろし)のごとくなり ひとたび生(しょう)をえて 滅せぬ者のあるべきか”(人間の一生は五十年、宇宙の大きさと比べれば、夢や幻のようにはかない。一度生まれた者は必ず死ぬ運命にある)

そして、今川軍が織田軍の複数ある砦を攻めるために兵力を分散させていた状況を逆手にとって(今川義元の本隊は兵力が手薄になっていることに目を付け)、今川義元だけを狙って決死の奇襲をかけたことが、織田信長の一発逆転の勝利につながりました。

そんな戦国時代の有名な駿河国(するがのくに)/遠江国(とおとみのくに)(今の静岡県辺り)の大名、今川家の菩提寺がなぜ荻窪にあるのかと言うと、話は正保二年(1645年)にまで遡ります。
正保二年(1645年)、今川義元の三代後の今川直房(なおふさ)が、大老・酒井忠勝とともに朝廷と交渉し、家康が祀られた日光の「東照社」へ後光明天皇から「宮号」(ぐうごう)を賜ることを実現させました(それ以来、「日光東照社」は「日光東照宮」と呼ばれるようになりました)。
その褒美の一つとして井草村(現在の杉並区井草、今川など)が領地として与えられ、その地に今川家の菩提寺として「観泉寺」が勧請開基(かんじょうかいき)されたのです。
桶狭間の戦いで今川義元を失い、領国であった駿河国(するがのくに)は北条氏・武田氏が、遠江国(とおとみのくに)は松平元康(徳川家康)が支配することとなり、今川氏は領地をすべて失い没落しました(戦国時代は勝者総取りの時代ですから仕方ないですね)。
しかし、徳川幕府が成立したのちに幕府高家として召し抱えられ、実は現在の荻窪付近に新たに領地を得ていたとは、何だか思いを馳せてしまうような経緯です。
観泉寺は幕末まで今川氏の知行地の拠点でしたが、明治時代に嫡流(ちゃくりゅう)は絶え、残念ながら今川家は断絶となりました。

(耳より情報)
観泉寺の前にはお地蔵さんが集められている場所があります。

その中に「地蔵坂」から移設された「北向き地蔵」さんがいらっしゃいます(マンションの建設に伴い、移設されたそうです)。
現在の「地蔵坂」(西荻北4丁目付近)には、地名の由来となったお地蔵さんはいませんが、実はコチラに移されていたのです。

■動画情報


■基本情報
[電] 03-3390-0015
[所] 東京都杉並区今川2-16-1
[関連サイト] 観泉寺

■地図(“拡大地図を表示”からルート検索が可能)



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