荻窪調査日記
▼Episode10:二・二六事件で襲撃があった上荻二丁目

今回は、二・二六事件で荻窪が襲撃された際の話題です。
近代の日本で起こった最大の軍事クーデター、「二・二六事件」。
1936年2月26日、折しも大雪の降った東京で陸軍皇道派の青年将校たちが起こしたクーデターです。
主君が受けた理不尽な扱いへの無念を晴らした「赤穂浪士の討ち入り(1703年)」、大老「井伊直弼」が暗殺され明治維新のスタート地点となった「桜田門外の変(1860年)」と並び、大雪の日の東京で起こった3大事件の一つとして記憶されています。
「二・二六事件」は、幕藩体制の封建社会から資本主義に移行した明治維新に倣い、政党政治から軍国主義への移行(=昭和維新、国家改造)の実現を目指したクーデターで、約1400名の下士官と兵が首相官邸・陸軍省・警視庁などの重要拠点を占拠、重要人物の殺害をはかった事件です。
大蔵大臣の高橋是清、内相の斎藤実、陸軍教育総監の渡辺錠太郎らが殺害され、鈴木貫太郎侍従長(じじゅうちょう)が重傷を負いました。
このうち渡辺錠太郎の私邸が、荻窪の上荻2丁目13番地(現:上荻2丁目7番)にありました。
渡辺錠太郎は「彼が生きていれば太平洋戦争は避けられたのではないか」と評される人物です。
第一次世界大戦後の欧州視察で、交戦国が勝敗に関わらず「総力戦」で疲弊している状況を目の当たりにし、「総力戦」となるような戦争を避ける重要性を説きました。
高い見識と国際感覚を持った渡辺錠太郎でしたが、軍人は自らの仕事に専念し政治に口を出すべきではないと主張したことで、陸軍皇道派の青年将校たちの反発を買ったのです。
1936年2月26日、午前5時頃、四ッ谷の斎藤邸で内相の斎藤実を殺害した下士官と兵のうち一部がトラック2台に分乗して荻窪に移動、光明院から続く道で渡辺邸の正面扉が見える変則十字路の一角に軽機関銃を設置して、午前6時頃に銃弾を撃ち込んだあと突入しました。
渡辺錠太郎と一緒に一階の和室で就寝中だった、おかっぱ頭の二女和子さん(成蹊小学校3年生、9歳)は、起きて一度は正面玄関にいた母親のほうに逃げましたが、母親が兵と問答中だったため再び奥の間に戻り、それを見た渡辺錠太郎が立てかけてあったテーブルの隅に押し込んだことで無傷でした。
渡辺錠太郎は拳銃を発砲して応戦しましたが、軽機関銃と拳銃の乱射を主に右半身に40発以上受け、最後は銃剣で切りつけられました。
ずっとテーブルの影から一部始終を見ていた和子さんは、兵が引き上げていったあとに出てきて「お父様」と呼びましたが、渡辺錠太郎はすでに事切れていました。
血の海の中、父親の凄惨な死を目の前(1mほどの距離)で目撃した和子さん。
父親を失った娘の将来を案じた母親がキリスト教系の女子校(雙葉高等女学校、現:雙葉中学校・高等学校)に入学させ、そこで献身的な修道女の姿に感銘した和子さんは1945年に洗礼を受けました。
そして、聖心女子大学、上智大学、ボストンカレッジ大学院で学んだあと、36歳という異例の若さでノートルダム清心女子大学で初となる日本人学長に就任。
2012年に発売された著書『置かれた場所で咲きなさい』では、ご自身の実体験から「どんな境遇でも不平を言う前に、置かれた場所で自ら動き、一花も二花も咲かせる努力をしよう」というメッセージを綴り、累計300万部を超えるベストセラーとなりました(2016年、膵臓癌により89歳で死去)。
「二・二六事件」は陸軍の決起部隊が起こしたクーデターでしたが、そこにもし陸軍第一師団が合流した場合、海軍は陸軍との全面戦争に突入するという最悪のシナリオを想定し、連合艦隊の旗艦「長門」を中心とした艦艇約40隻を東京湾の芝浦沖に集結、戦艦から東京市を一斉砲撃できる体制を整えました。
また、重巡洋艦「愛宕」を旗艦とする第二艦隊を大阪の沖合に置き、事態が大阪に飛び火した場合に備えました。
昭和天皇は、鈴木貫太郎が襲われた際に、その妻が電話したことで事件を知り、事件発生の翌日、2月27日午前3時50分には、昭和天皇の名のもとに東京市内に戒厳令(=非常事態時に軍事力によって治安維持を行う発令)が施行されました。
鈴木貫太郎の妻は昭和天皇の養育係で、昭和天皇の希望で鈴木貫太郎が侍従長に就任したという経緯がありました。
昭和天皇は、最も信頼する老臣が重傷を負ったことに心を痛め、天皇が自ら近衛師団を率いて反乱を起こした部隊を鎮圧する意向を表明。
この「クーデタを起こした部隊は反乱軍であり鎮圧すべきものである」という勅命が伝えられたことで、同士討ちをためらい対応に消極的だった陸軍の上層部も、海軍とともに鎮圧をはかりました。
重傷を負い、心臓停止で医師から臨終を告げられた際に「あなた、起きなさいっ!」と妻が一喝したら奇跡的に息を吹き返したという鈴木貫太郎はその後、太平洋戦争の戦況が悪化した1945年に昭和天皇の頼みで首相となり、ポツダム宣言を受諾して日本を終戦に導きました。
荻窪の上荻二丁目十三番地(現:上荻2丁目7番)にあった渡辺錠太郎の私邸は、老朽化のため2008年に取り壊されましたが、扉や襖など建具の一部は杉並区に寄贈され、それらを使用した展示が杉並区立郷土博物館で時折、開催されています。
なお、港区の赤坂にあった高橋是清の私邸(主屋部分)は、戦前に多磨霊園に移されていたため戦災を免れ、1993年に東京都小金井市にある「江戸東京たてもの園」に移築・復元されました。
木造2階建の私邸で、高橋是清が青年将校たちに銃撃された二階の窓辺(殺害現場)も見学することができます。
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